「○○ちゃんはね、運動会で速すぎて男の子と間違えられたんだよ。会場がどよめいたくらい!」
今年も、この言葉が食卓に響いた。
発信源はもちろん、義父。
そう、義父は毎年この話を繰り返す。
私はもう10回目だ。だって、同居して10年目ですから。
最初の年は、普通に「すごいですね〜!」と笑った。
でも、その翌年も、また翌年も、
まったく同じ内容で語られる、姪っ子(=夫の姉の娘)の武勇伝。
さすがに最近では、話の流れが変わる前から「そろそろ来るぞ」と身構えるようになった。
義父の運動会トーク、開幕の合図は“あれ、今年の運動会っていつだっけ?”である。
■ 義父はなぜ毎年同じ話をするのか?
心理を考えてみる。
- 身内の誇らしい話を語りたい(=自己肯定感アップ)
自慢話ではない。たぶん、“身内自慢”という形を借りて、実は自分自身を誇りたいのだと思う。 - 記憶の中に“盛り上がった話”が強く残っている
その場の笑いや驚きをもう一度体験したくて、繰り返す。
それが周囲には“もう何回目?”になるとは気づかずに。 - 「語り手」として認められたい
義父にとっては、家族の場で自分の存在価値を発揮できるのが「語ること」なのかもしれない。
■ でも、聞く側の私は…
- 毎年同じ内容をリアクション付きで聞くのが地味につらい
- 自分の子ども(義父にとっての孫)の話は軽くスルーされがち
- 話題が義父→姪っ子→義姉に流れていき、「こっちの家族の空気」にならない
■ これは、嫌味ではない。けど、心に引っかかる。
嫌味のように悪意はない。
でも、だからこそ厄介。無意識の無関心、無意識の身内びいきが、
私にとっては「なんだかさみしい」につながっていく。
■ 義父が話し続ける姪っ子、夫は特に何も言わず。
隣で夫は、いつも通り食べながら適当に「へぇ~」と笑っているだけ。
私が「またあの話だったね」と言っても、「ボケてんじゃない?」とあまり真剣に聞いてくれない。
…いや、私はもう10回も聞いてるんですよ。
■ そして私は今日も“心のカウント”を進める
今年で10回目。
来年は、どこで出るかな。「今年の運動会、どうだった?」がトリガーか?
また義父の語りが始まったら、私は心の中でそっと「10→11」とカウントするつもり。
◆まとめ
- 義父が語りたがる“定番エピソード”には、自尊心や家族への誇りが詰まっている。
- でも、聞かされる側が“毎年同じ話”に疲れるのは当然。
- 悪気がないからこそ、誰も止めない。でも、聞き手は毎年静かに疲弊している。
義実家の会話、今日も“記憶の反復上映会”みたいだった。
でも私は、それをちゃんと聞いて、そしてここに記録した。
私なりの、家族との距離の取り方。